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岡本 唐貴  【風景】
                 岡本 唐貴
        1903(明治36)−1986(昭和61)
  □ 41×31.9(p)  6号

  □ キャンバス油彩

  □ 右下画面下にサイン
時にはプロレタリア美術運動の旗手のようにも謳われるこの画家。
美術と思想にもろ手をかざして向かい合うとき、苦悩もともなった
ことではないだろうか。
そういったものから解き放たれた題材を得たとき、絵具が機嫌よく
キャンバスの上にのっかってゆくようで小気味よかったんじゃないかな、と思わせてくれる作品です。
主義も主張もイディオロギーも関わりなく、ごく自然なひとのいとなみが
うかがえそうな、草木に囲まれたこの土塀の向こうの家屋屋敷。
この絵の長閉な日和が、この作家の人柄の一面のように感じられます。
1963年(昭和38年)、還暦を迎えたこの作家の画集巻末にみる
写真の表情は、あの労働争議の情景を描いた作者とは思えない
とても柔和な顔立ちのひとです。
1903 (明治36) 12月3日岡山県麻口軍連島町(現在倉敷市)に岡本弥平次・留与の三男として生まれる。
1918 (大正5) 13才 生地の西浦小学校卒、同時に岡山市、つづいて神戸市に出て父の家業に従事する。
1918 (大正7) 15 父の家業の失敗により、神戸市の葺合地区に古書籍商を営む。
かたわら独学、米騒動と 労働争議に深い感銘を受ける。
1919 (大正8) 16才 父の死去により、郷里の生家に帰り、農に従事、油絵の勉強をはじめる。
1920 (大正9) 17才 画家を志して神戸市に出て浅野孟府(あさのもうふ)と知る。二人で東京に出、原宿にて共同生活を始める。
1921 (大正10) 18才 浅野と戸田海笛のアトリエに寄寓、油絵のかたわら彫刻を学ぶ。中央美術展に『夜の静物』入選。
1922 (大正11) 19才 中央美術展に『神戸灘風景』入選。東京美術学校(現芸大)彫塑科選科に入学。
1923 (大正12 20才 第10回ニ科会展に『静物』2点入選。関東大震災のため、神戸市に移る。アクション同人に推薦され、作品出品。アクション同人に推薦され、 作品出品。神戸市三宮のカフェ・ガスを拠点に浅野と新しい美術運動を起こす。文学青年、青年画家、 アナアキスト、社会運動家等と交る。
1924 (大正13) 21才 二科展に『静物』入選。この当時キュ―ビアズムとイタリ―の形而上派にひかれつつ、
多数の作品を描く。 アクション分裂。
1925 (大正14) 22才 旧アクションの一部、マヴォ、未来派美術協会、DSDにより、三科会結成、創立会員として参加。春の会員展に『ペシミストの祝祭』『乱舞』『警視庁は半透明の液体也、プロレタリア花火を見る図』 (コラージュによる)等出品。劇場の三科に吉田謙吉、浅野孟府とコンストラクションなる無言劇を競演する。 秋の三科展に『ルンペン・プロレタリア』を出品、絵画形式の完全な否定と、ダダイズムに陥り、美術と思想の 問題で苦しむ。三科分裂。
1926 (昭和1) 23才 再び東京に移り、矢部友衛、神原泰、浅野孟府等とグループ造型の創立に参加。三科のアナアキズム、ニヒリズム、ダダイズム傾向と決別、これらをブルジョア美術の個人主義的限界による頽廃として否定。これに代って、人間の集団主義による健康性に根ざした絵画の復活をめざし、モニュメンタリズムを主張。論文“造型とその意義について”美術雑誌アトリエに発表。
1927 (昭和2) 24才 訪ソ中の矢部友衛の要請により秋田雨雀と共に日本に於ける“新ロシア美術展”の開催に協力する。
1928 (昭和3) 25才 グループ造型は“造型美術協会”として再組織され、美術団体としての運動を開始。機関紙「造型」の発刊、丸の内三菱13号館内に研究所を設置する。この研究所は翌年長崎町に新築され移る。無産者美術団体協議会に参加し、同協議会主催の第1回プロレタリア美術展に『政治的集会』 (習作新党準備会)を出品。
1929 (昭和4) 26才 “ナップ”所属“日本プロレタリア美術家同盟(AR)”と“造型美術家協会”と合同し、“日本プロレタリア美術家同盟(PP)”創立され、創立委員として活動する。第2回プロ展に『工場へ』 (争議団の工場襲撃)を出品。
1930 (昭和5) 27才 相馬君子と結婚する。第3回プロ展に『出発』出品。論文集「プロレタリア美術とは何か」をアトリエ社より出版。
1931 (昭和6) 28才 満州事変始まり、文化運動への弾圧強化される。第4回プロ展に『電産ストライキ』出品。
1930年版「日本プロレタリア美術集」の刊行に協力。刊行直後発売禁止となる。
長男登(後に漫画家「カムイ外伝」でも有名なあの白土三平)生まれる。
1932 (昭和7) 29才 神戸市に一時移り、第5回プロ展に『逮捕』を出品。『祖母』その他多数を描く。
1933 (昭和8) 30才 東京に出て『小林多喜二の死面』を描く。大阪美術新論画廊にて、浅野孟府と共同展開く。
社会主義リアリズム問題の討議のため、「新しい美術とリアリズムの問題」を執筆、国際書院より刊行されたが、即日発禁となる。北海道にてプロ展開催のため、札幌に行き弾圧される。北海道石狩平野の農家を訪問、生活を見る。炭鉱や札幌の風景を描く。
次男銕二生まれる。石狩平野での見聞に基づいて、満州事変に関聯する主題『地区新聞』を描く。
美術家同盟の決議により帝展に集団出品、落選する。
1934 (昭和9) 31才 美術運動再組織のため、関西方面にて活動中発病、37年まで斗病生活に入る。
1935 (昭和10) 32才 6年と健康の快復にともない、作画を始める。『大阪郊外風景』『顔』『農夫』その他を描き、東京に於ける岡本唐貴救援会の展覧会に出品する。
1936 (昭和11) 33才 3男真正生まれる。
1937 (昭和12 34才 大阪三角堂にて個展。室戸岬を中心とする風景画を出品。
1938 (昭和13) 35才 出京。新潟にて個展。練馬に画室を建て、少数のグループにて再出発のための勉強を 始める。
1940 (昭和15) 37才 満州と北京に写生旅行。大連、奉天にて個展、『天壇』その他多数を描く。
1944 (昭和19) 41才 東京での生活が困難となったので、家族と共に長野県に疎開、写生につとめる。
1945 (昭和20) 42才 疎開地にて終戦をむかえる。長女颯子生まれる。
1946 (昭和21) 43才 矢部友衛、山上嘉吉、寺島貞志、市村三男三等と“現実会”を創立、2回展覧会を開き、戦時中の作品を中心に発表。同時に戦時中の集団理論研究の成果として「民主主義美術と綜合リアリズム」を執筆、矢部友衛との共著にて刊行。“日本美術会”に参加、毎日新聞主催美術団体連合会、に2回まで出品、『少年工』その他。
1947 (昭和22 44才 朝日新聞、東京都主催、新憲法実施記念、現代美術展に、『アジサイの静物』出品。
1948 (昭和23 45才 日本美術会主宰第1回日本アンデパンダン展に『農村の娘』『農民委員』その他を出品。
現実会解散。
1950 (昭和25) 47才 ソヴェート美術研究会を組織す。
アンデパンダン展に『小林多喜二の母』その他風景画を出品。
第12回一水会展に『詩人Kの像』出品。読売アンデパンダン展に『壺井繁治像』出品。
1951 (昭和26 48才 第4回日美アンデパンダン展に『地区の政治的集会』『リンゴ園』出品。
1952 (昭和27) 49才 第5回アンデパンダン展に『高原の道』『除村氏像』他8点出品。5月壁画『みのり』完成。
1953 (昭和28) 50才 第6回展に壁画『みのり』出品
大阪梅田画廊にて個展。『或る舞踊家』『母の像』その他22点出品。
1954 (昭和29) 51才 アンデパンダン展に『法と対決する労働者』『松川の人』その他出品。
1955 (昭和30) 52才 村雲大撲子、石垣栄太郎、別府貫一郎、後藤禎二、山上嘉吉、寺島貞志と グループ“点々会”を創立。第1回展に『漁場から来た老人』『五月のくぬぎ』など出品。第2回点々会に『小豆島風景』を出品。
1956 (昭和31) 53才 東京丸善にて個展。
1958 (昭和33) 55才 第4回点々会に『オルガンと少女』『魚のある静物』その他出品。
1960 (昭和35) 57才 第13回アンデパンダン展に『緑の石』『羽根』『海と老樹』を出品。
1961 (昭和36) 58才 東京サヱグサ画廊にて個展、『石切場風景』他出品。
訪ソ日本現代絵画展の事務局長として同展の組織を丸木位里、矢部友衛と ともにすすめる。
1962 (昭和37) 59才 ソ連に於ける日本現代美術展に『石切場』『原爆の墓標』『羽根』『或る舞踊家』を出品。
ソ連美術家同盟の招待により、同展代表の一人として訪ソ。
鎌倉近代美術館に於ける大正期洋画展に40年前の旧作『静物』『失題』を出品。
1963 (昭和38 60才 「岡本唐貴画集」が同刊行会により発行される。
(以上1963年発行「岡本唐貴画集」より参考抜粋)

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